原城
原城は1496年、東肥前までも勢力を延ばし当時26万石ともいわれた領主・有馬貴純によって築かれたといわれ、周囲4キロの三方を有明海に囲まれ難攻不落の天然の要害で、本丸・二ノ丸・三ノ丸・天草丸からなり、別名「日暮城」とも呼ばれた美しい城であった。
晴純の代に至り、有馬氏の全盛時代となったが、次第に衰退
義直時代には、佐賀の龍造寺により再三侵略されたが、島津氏の救援で島原沖田畷にて勝利をおさめ、島原半島の南部をかろうじて維持できた。
有馬晴信が1612年に岡本大八事件に連座し配流・切腹となり、子直純が再度有馬の地をおさめたが、2年後日向に転封となった。
その後、1616年大和五条より松倉重政が入封、一国一城の令によって島原城(森岳城)を築城したので、日之江・原城は廃城となった。
1637年、この廃城となっていた原城に一揆が籠城した。「島原・天草一揆」である。
昭和13年5月30日、国の史跡文化財に指定。
原城本丸には南島原市出身の彫刻家・北村西望による祈りをささげる天草四郎像や、西有家町の民家の石垣に埋もれていた天草四郎の墓石が移されている。
また、この台地は約9万年前に起こった阿蘇火山の大噴火による火砕流がつくったものであり、この地層の中には、雲仙火山のものとは全く性質が異なる白い軽石が含まれている。
(長崎旅ネットより)
写真を撮らなかったのでネットからお借りした北村西望の「天草四郎」(南島原ひまわり観光協会HPより)
原城に籠城した一揆の領民37000人、包囲する討伐軍は最終的には120000人、城内の食糧、弾薬も尽きかけていることを知った討伐軍は最後の総攻撃を仕掛け一揆軍は天草四郎をはじめ皆殺しにされた・・・
なんとも悲しい出来事ですね・・・
こののどかな風景からは想像もできない・・・